とあるガゼボでの急なお茶会のあとの話である。
お茶の淹れ方には少し拘りがあるという多軌と、なんとなしの話の流れで、彼女のおすすめの茶葉を一緒に飲もうという約束をした。
誰もいない多軌の家に押しかけることを躊躇する夏目に、「ウチに呼べばいいだろう。塔子もいるしな」と、ニャンコ先生がこともなげに言う。
それで、そういうことになった。
「おい夏目、いつまで掃除してるんだ」
「お客を招くんだから、部屋を綺麗にするのはあたりまえだろ」
先日はその部屋で西村や北本や田沼らと一緒にダラダラと煎餅を齧っていたくせに、と思いつつ、やたらと念入りに畳にコロコロをかける夏目を放置して、ニャンコ先生は来客用のふかふか座布団にごろりと寝転んだ。
やがて、約束の時間から少しだけ遅れて、多軌がやってきた。
「あ、うまい」
「すっきりとして、甘味にも合うな」
「でしょう?ベースは緑茶だから、あんこに合わせてもいいの」
多軌の最近のお気に入りだというジャスミン茶を啜りながら、塔子が用意したスコーンを齧って、夏目とニャンコ先生は舌鼓を打つ。
「他にもいろいろな種類の茶葉を持ってきてみたから、ぜんぶ飲み比べてみましょう」
「いいね、のぞむところだ」
爽やかなお花の香りに後押しされたのか、知らずのうちに少しだけ緊張していた気持ちもほぐれて、夏目はすっかり楽しくなっていた。
「こういうシンプルできれいなティーポットって、いいわよね」
空いた夏目のカップにゆっくりと紅茶を注いで、からになったティーポットをつるりと撫でながら、多軌が言った。
白くて丸いフォルムをやさしくなぞる多軌の細い指につい目が引き寄せられてじっと見つめてしまった夏目は、誤魔化すようにティーポットに関心を向けた。
「ああ、それ。塔子さんも気に入ってるんだ」
実際、それは事実だった。多軌の手にあるそれは、塔子のお気に入りの逸品だ。
夏目の来客をもてなすとき、塔子は家中の上等な品物を惜しげもなく使う。西村たちを招くときは、男子らの胃に合わせたような、たっぷりと容量のある渋めな風合いの茶器を使うのだけれど、今日は多軌が遊びに来ると伝えた途端、何かを得心したような顔をして、棚の奥の綺麗な箱からわざわざ取り出してきてくれたのだ。
いつも多軌が訪れるときの塔子は心なしか、うきうきとした様子で――何やら誤解されているような気もするが――とにかく、そうして塔子が特別な心遣いをみせてくれたものに、多軌が気付いて好きだと言ってくれて、なんだか夏目まで嬉しくなる。
「それにこのティーポット、なんだかニャンコ先生みたい」
「言われてみればそうかも」
美味しい紅茶とお菓子をたっぷり堪能し、タキの膝上で満足そうに寝息を立てているニャンコ先生の大きくふくらんだ白い腹と、白くて丸いティーポットを見比べて、夏目はおもわず吹き出してしまった。
「そうそう、ニャンコ先生といえばさ…」
和やかにおしゃべりは続く。
「それじゃあ先生は、その妖怪さんの分のお酒まで全部飲んでしまったの?」
「そう。人にも妖にも遠慮ってやつがなくて、横柄なんだ、このニャンコ」
「ふふ。夏目くんも大変ね」
それが妖の話題でも、分け隔てなく笑ってくれるタキの相槌が心地いい。自分はあまり喋るのが得意ではないと思っていた夏目が、考えを改めるのはこんなときだ。友人とのおしゃべりはこんなにも楽しい。
妖との些細な日常を、まるできらきらしたものみたいに大切に聞いてくれる多軌の喜ぶ顔が嬉しくて、夏目は多軌の前では常よりも数段、口がかるい。自分ではそのことに気付いてはいなかったが。
何度目かの紅茶のお代わりを取りに台所へ立った夏目が部屋に戻ると、多軌が座っていた座布団に、ニャンコ先生が丸くなっている。多軌はというと、窓を開けて外を眺めていた。少し傾いて差し込む夕日が多軌の横顔を照らしている。その柔らかな輪郭は、何度も夢で見た少女姿の祖母のかたちを思い出させて、夏目は一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「あ、夏目くん。おかえりなさい」
「タキ、外に何か?」
無言で手招きする多軌に誘われて、隣に並ぶ。窓の外を見回してみるが、そこにあるのは夕空と冬の木立と、青い瓦屋根と、その下にある家の門構え。夏目がいつも見ている光景だった。たまに訪ねてくる妖たちも今はいないし、そもそも多軌に妖は見えない。
「……気付かない?」
「いや、何も。タキには何か見えてるのか?」
きょろきょろと不思議そうな夏目の様子をしばらくじっと見つめて……多軌はくすくすと笑いだした。
「な、なに?」
「ふ、ふふ…ごめんなさい。なんだかいつもと逆だなって」
――たしかに。
相手は見えているものが自分には見えていない状態は、夏目にとって新鮮だった。これがいつものみんなの感覚だとしたら、この認知の齟齬に、自分は周囲に随分ともどかしい思いをさせているかもしれない。
ばつの悪そうな顔で多軌をみると、彼女は驚くほどかろやかに微笑んでいた。
夏目は不思議な気持ちになる。
「ねえ、どこからかお花の香りがしない?」
「え?」
くん、とあらためて空気を嗅いでみると、確かに、ほんの微かに甘い香りがした。ずっと嗅いでいたくなるような、とても好ましくて、いい匂いだ。
「本当だ。どこから香ってるんだろう」
「それを探してたんだけど……ねえ夏目くん、お花の香りがする妖さんとか、近くにいないかしら?」
わくわくした顔で聞いてくる多軌に、夏目は苦笑して答える。
「なんでも妖のせいにするべきじゃないぞ」
「夏目には一番言われたくないセリフだな」
窓際で向かい合う夏目と多軌の隙間に、ジト目の猫が顔を出した。
「ニャンコ先生!」
「先生、ようやく起きたのか。食っちゃ寝ばかりで、ますます太るぞ」
夏目の小言を慣れた様子で聞き流して、ニャンコ先生はくん、と鼻を鳴らした。
ひくひくと動く小さな鼻孔を、なぜかうっとりみつめる多軌の視線を無視しつつ、ふむ、とひとりごちる。
「これは花の香りではないぞ」
「え、それじゃあ、やっぱり妖なのか? 家の周りには誰も見当たらないけど…」
「外からでもない」
そう言って、ニャンコ先生はじっと多軌を見つめた。
「お前の匂いだ、タキ」
「え!」
驚いて身を捩った多軌の服の裾から、何か小さなものがひらりと落ちるのを夏目は見た。拾い上げると、それは何かの花弁のようだ。
「それが原因だな。香告花といって、近くを通った者にくっついて散布を広げる珍しい植物なんだが…」
夏目が試しに匂いを嗅いでみるも、何の匂いもしない。
「それ自体に香りはない。くっつかれたものが妖気を吸われることで香るからな。こんな小娘程度の妖気では、ずっと持っていてようやく香る程度の微かな匂いにしかならんだろう。タキ、お前また妙な道でも通ったな?」
じとりと睨め付けるニャンコ先生の視線に、心当たりがあったのか、多軌はしばらく視線を泳がせると、やがて観念したように話し出した。
「…実はその。ここに来る途中、ちょっと遅刻しそうになって、近道のためにいつもとは違う山道を通って……。で、でも今度は迷子にはなっていないわ!」
妙なところで慌てて言い訳をする多軌がなんだかおかしくて、夏目は堪えきれず笑ってしまう。
「灯台下暗しってやつだな」
「うう、ごめんね。お騒がせしちゃって……」
他愛ない不思議の原因が自分だとみとめて、恥ずかしそうに多軌も笑った。
開け放った窓から風が吹き込んで、その拍子にふわりと鮮烈な香りが周囲に漂う。さっきとは違うはっきりとした匂いに、すぐにそれが夏目から漂っていることに気づいた。夏目の妖気を吸った花の香りは、まるで蜜のように濃く、それでいてどこか清々しくて優しい。
さっきよりずっといい香りだわ、と多軌は思った。これが夏目の香りだというなら、それはとても……。
そのとき、ひときわ強い風が吹いた。
「あ」
夏目の手から零れた花弁が風に乗って窓の外に飛んでいくと、花の香りも呆気なく薄れていく。名残惜しそうに消えゆく花弁を見つめている多軌と夏目を横目に、ニャンコ先生がふん、と鼻息を立てた。
「ただでさえ夏目はうまそうな匂いがぷんぷんしとるのだ、その上あんな強い香りまですれば鼻が利かなくなるところだ」
清々した、とばかりにニャンコ先生が言った。
「はは、先生にはそうかもな。ああ、でも――」
夏目はちらりと隣にいる多軌を見る。小さな窓に身を寄せ合って外をみていたから、いつもより距離が近いことを、ようやく意識した。柔らかな温度を肩に感じて、無意識のうちにそっと息を吸う。
タキはおれよりもうまそうな香りだったな、と夏目は思った。
/終
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