最近、お気に入りの昼寝スポットをみつけた。
校舎からほど近いが人通りは少ない道沿いの一角に、日当たりのいい原っぱがある。その端にちょうどいい大きさの木が一本だけ生えていて、その木陰が程よく日差しを遮ってくれるのだ。晴れ渡った今日のような日にごろりと横になれば、きっと晩春のすっきりとした風が通って、さぞ心地良いだろう。
昼食を食べ終わったあと、各々用事があるらしい友人たちと別れた夏目は、食休みにひと眠りでもしようと歩き出した。
目的地に着いたところでいつもの木の根元をみると、先客がいることに気付く。
紺色のセーラー服からすらりと伸びる白い足がまず見えて、気まずさに思わずそのまま引き返しそうになる。でも、もしかしたら体調不良などで倒れているのかも。そう思って顔色だけ確かめようと足音をひそめて近づいていくと、そこには見知った顔があった。
「タキ?」
思わず声をかけてしまったが、応えはない。
心配になって近づくと、静かな寝息が聞こえてくる。目を閉じたままで横たわる少女の手元には閉じかけの文庫本。木の根っこの上に花柄の手提げがちょこんと置いてあって、その中には小さなお弁当箱が入っている。推測するに、多軌もどうやら夏目と同じ目論見でここにいるようだった。なんとなく自分だけの秘密の場所だと思っていたせいで必要以上に驚いてしまったが、意外でもなんでもない、知る人ぞ知る穴場だったというわけだ。
木陰に通り抜ける風は緩やかで、さわさわと多軌の前髪を揺らしている。思った通り今日は昼寝日和だった。傍近くに夏目の気配があるというのに、多軌はまったく起きる気配がない。なんとも不用心な彼女を残してそのまま立ち去るのは憚られて、夏目は眠る多軌の隣に腰を下ろした。
多軌は静かに眠っている。
整った顔立ちを縁取る髪は、風に揺れてふわふわと柔らかそうだ。目元をみると薄い皮膚の下にうっすらと桃色が透けている。隈のできやすい多軌の顔色が良好なことに、夏目は安堵した。また何か困りごとがあって眠れていないわけではなさそうだ。若葉色の光に塗れて淡く光る清らかな寝姿をみていると、この穏やかな午睡を守ってやりたいなと思う。
用心棒になったつもりになって、夏目は先程よりも遠慮なく多軌を眺める。呼吸のたびにゆっくりと上下する白いスカーフがいつもより眩しくみえて視線を下に逃がすと、今度は少し乱れたスカートの襞が気になってしまう。夏目は無言で黒い詰襟の上着を脱ぐと、起こさないように、そっと多軌の腰元に被せた。
「ん……」
掛けられた布の重みに小さく身じろぎをする多軌に、息を呑んで動きを止める。疚しいことはなにもないはずなのに、後ろめたいのはなぜだろう。伸ばしていた手を素早く引っ込めて、誤魔化すように地面に生えた雑草に目線を移す夏目は、それが逆に不審な挙動になっているということには気付かないふりをした。
「なつめくん」
まどろんだ甘い声でふいに名を呼ばれて、胸が跳ねる。いくつかの下手な言い訳を必死で考えながら慌てて多軌の顔を窺うと、その瞼は閉じられたまま。
多軌は変わらず寝息を立てている。空耳かとも思ったが、わずかにほどけた口許が、彼女が自分を呼んだ声の主であることを示していた。
「……タキ?」
息をひそめるようにそっと囁いた夏目の応えに、多軌の花弁のような唇がふわりと綻んだ。
幸福な夢の中にいれてもらえたような気持ちになって、胸の奥がくすぐったい。微笑みを湛えた円い頬に触れたくなって、花に誘われるように指先を伸ばしかけて…すんでのところで我に返った。さすがにそれは、よろしくないだろう。
ふわふわと浮わついた心を静めようと、夏目はそのままころりと地面に横になって目を閉じた。青っぽい草の匂いは爽やかで、吸い込むと頭がすっきりするはずなのに、目蓋の裏に焼き付いたやわらかな輪郭が浮かんで、いつまでも鼓動が落ち着いてくれない。
隣からは相変わらず無垢な寝息が聴こえてくる。きっと平和な多軌の夢の中の自分が、少しだけ羨ましくなった。
「…夏目くん」
そう、多軌はいつもこうして、とても優しく夏目を呼ぶから。甘やかな響きをもっと聞きたくて、じっと次の言葉を待つ。
「起きて、夏目くん」
温い手に優しく肩を揺らされて、夏目は目を開いた。
若葉の天蓋の下で、多軌がこちらを見つめている。ぼんやりと見つめ返すと、「おはよう」ときれいに微笑んだ。寝惚けた頭のまましばらくその光景に浸っていると、遠くからチャイムの音が聞こえてくる。午後の授業の存在を思い出して、夏目は慌てて起き上がった。
「やばい」
「ええ、やばいわ」
焦るふうでもなく多軌はそう言って、くすくすと笑っている。あまりに落ち着いているので、夏目は不思議そうに多軌を見た。
「急がないのか?」
夏目の問いに、多軌はポケットから華奢な腕時計を取り出して掲げた。短い針が1時のところを指している。
先ほどの鐘は五限目授業の開始の合図だったらしい。
「遅刻決定ね」
「……そうみたいだな」
潔すぎる多軌の言葉に夏目も諦めて、上げかけた腰を下ろす。
「これ。ありがとう、夏目くん」
隣に座る多軌から、綺麗に畳まれた制服の上着が差し出された。受け取ると、まだほんのりと温かい。なんとなくすぐに袖を通すのが躊躇われて、小脇に抱えたまま、夏目は多軌が起きたら言おうと思っていたことを思い出した。
「そうだ。タキ、不用心すぎるぞ。こんなところで眠るなんて…」
そこまで言ってから、さっきまで自分も同じように寝こけていた事実にしばし黙り込む。
「…寝てるのをいいことに悪さをするやつがいるかもしれないし、気を付けないと……」
思わず眠る多軌に手が出そうになったとは口が裂けても言えない。歯切れの悪い夏目の説教に、なぜか多軌は神妙にうなずいた。
「本当にそうね。…隣で無防備に眠られると、出来心が芽生えてしまう」
「ん?」
「夏目くんも気を付けてね」
「あ、ああ」
真剣な眼差しで忠告を返されて、つい返事をしてしまった。
「さて、そろそろ叱られにいかなくちゃ」
多軌はおもむろに立ち上がって、うーんと伸びをする。
「遅刻するのって初めてかも。ちょっとドキドキね」
「ごめん、起こしてやれなくて」
勝手に多軌の用心棒のような気持ちになっていた夏目は、自分の不甲斐なさを嘆く。いつもニャンコ先生の適当な仕事ぶりを罵っていたが、用心棒稼業も楽ではないのだと実感した。今日は少し先生に優しくしてやろう。
申し訳なさそうな夏目に、多軌は取りなすように言葉をかける。
「いいえ、夏目くんは何も悪くなんてないわ。最初に居眠りしていたのは私なのだし」
「次はちゃんとおれが起こすから」
「……」
急に黙ってしまった多軌を、夏目は不思議そうに眺めた。我ながらあまりに説得力がない発言だったから呆れてしまったのだろうか。続けて口を開きかけたとき、多軌が言った。
「じゃあ、そのときはよろしくね」
なぜか少し赤みを増した頬が、妙に気になったが。
花柄の手提げに散らばったものをまとめて持つ多軌の隣で、夏目も立ち上がって裾に付いた草をゆっくりと払う。これでこの午後が終わってしまうことが惜しくて、ふと最後に気になっていたことを聞いてみる。
「そういえば、多軌はどんな夢を見ていたんだ?」
多軌は驚いたような顔でこちらを見たあと、少しだけ逡巡して、ついと目を逸らした。答えを待つ夏目に、聞こえるか聞こえないかくらいの声が届く。
「……内緒」
午後のクラスに戻り、教師からの厳しい注意と級友からの心配を含んだ揶揄を有難く享受しながら、自分の席に着く。遅刻の理由は簡単に説明して、一緒にいた誰かのことは誰にも言わなかった。
窓の外には気持ちのいい晴天が広がっている。ぽかりと浮いた雲に面影が浮かぶ。
夢うつつに呼ばれた自分の名前の響きが、いつまでも耳から離れない。
/終
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