唯今

夏目友人帳/夏目×多軌


 山の向こうが茜色に染まりだして、古びたスピーカーから「赤とんぼ」が流れると、それが解散の合図だった。
 友人たちに「またな」と告げて、夕日に照らされて長く伸びた自分の影を踏みながら、もうすっかり馴染んだ家路を辿る。ただそれだけのありふれた日々を、夏目は今日もひとり、得難く噛み締めていた。
 少し前までは、夕暮れ時にひとりになると、まるで自分がこの世界で迷子になってしまったような心細さがあった。進んでいきたい場所もなく、いつもどこか遠くの空ばかり眺めていた。だが今はもう、迷わずにまっすぐ前を見て歩いて行ける。
 見知った家の石垣が見えてくるにつれて、疲れていたはずの足取りはどんどん軽くなる。充実した今日一日を反芻しながら、夏目は上機嫌に我が家の玄関をくぐった。

「ただいま」

 帰宅の知らせを元気よく発せば、いつもはすぐに優しい返事が返ってくる、はずだった。なのに今日は、しばらく待てども応えがない。夏目は訝しんだ。
 ふと目線を落とすと、土間の上に並んでいる靴に見覚えのない一足がある。きちんと丁寧に揃えられたそれは、品のいい赤色が綺麗で、みるからに女性ものだ。お客さんが来ているのなら騒ぐべきでもないか、と、なるべく物音を立てないように靴を脱ごうと屈んだところで、背後からパタパタと弾むようなスリッパの音が近づいてきた。

「おかえりなさい」

 それはとても聞き覚えがある声なのに、聞いたことがない響き。
 驚いて顔を上げた夏目の視界に、白くまろやかな輪郭が映った途端、日も傾いてそろそろ照明が欲しいくらいに薄暗かった玄関が、ぱっと明るくなったような気がして、夏目は目を細めた。
「……タキ?」

 オレンジ色の夕陽が差し込んだ我が家の廊下に、割烹着姿の多軌がいる。

 柔らかそうな髪を複雑に編み込んで一纏めにお団子頭にして、すっと伸びた首筋が露わになっているのも相まって、いつもより少しだけ大人びてみえる。そんな彼女が、少し照れたような、はにかんだ顔で夏目を出迎えてくれていた。
 まるで現実感がない。
 もしや妖の仕業だろうか?
「ど、どうしてタキがうちに?」
「ふふ、ごめんね。お邪魔してます」
「いや、ぜんぜん邪魔なんかじゃないけど。なんで?」
 やけに堂々とした立ち振る舞いの多軌に、まさか今日は多軌と何か約束があったかな、と混乱しながら記憶を辿るも、特に思い当たるふしはない。
 少しでもこの事態の手がかりをつかもうと、夏目は目の前の多軌をまじまじと見遣る。
 襟もとに花柄の刺繍が入った白の割烹着は、いつも塔子が着ているのと同じもののはずなのに、多軌が着ると新鮮で初々しい。膝下丈の裾からのぞくワンピースの生地は滑らかで、お洒落に疎い夏目からみても上等そうだ。いつもさらりと上品な格好をしている多軌が、その上から家庭的な着物を身に付けているというのは、なんというか…意外性があるけど、不思議とよく似合っている。
「ええと、夏目くん…?」
 急に黙り込んでこちらをぼうっとみつめてくる夏目に、戸惑った多軌が一歩、近づいてきた。来客用のスリッパは大きめなので、多軌が歩くたびパタ、と軽やかな音が響いて、やけに耳に残る。夏目は無意識にもっと多軌のほうへ近づこうと足を進めて――

「あらまあ。貴志くんたら、ぼんやりしちゃって。いったいどうしたのかしら?」

 くすくすと悪戯っぽい笑い声がして、ようやく夏目はこの場には塔子もいるのだと気が付いた。最初からずっと多軌の背後に立っていたというのに、ちょうど夏目からは死角になっていたせいだろうか。すっかり見過ごしていたようだ。
「と、塔子さん。あの」
「ふふ。まずは荷物を降ろして、手を洗ってきてから、ね」
「は、はい」
 まるで美味しいものをお預けするかのような塔子の口調に、なぜか有無を言わさぬものを感じて、夏目は素直に洗面所へと向かった。

 いつもより念入りに手洗いうがいをして、ついでに顔まで洗う。知らずに火照っていたらしい頬に、冷たい水が当たって心地いい。
 さっぱりとした頭で改めて先ほどの光景を思い返すと、自分はたしかに少し、動揺していたかもしれない、と夏目は反省した。
 それもこれも見慣れない多軌の姿のせいだ。あまりに不意打ちなので、とても驚いてしまった。傍目にもぎこちなかった挙動に、多軌が気分を悪くしていないかと、少し不安になる。
 鏡に映った自分の乱れた前髪を手櫛で整えて、他におかしなところがないことを確認すると、夏目はよし、とひとりごちた。
 とにかく、話を聞いてみよう。

「お魚屋さんで、ひと山大盛りの車海老がすっごくお値打ちだったの。とても魅力的だったけれど、うちでは食べきれないから買えないなと迷っていたところに、ちょうど買い物中だった塔子さんが、みかねて話しかけてくれて」

 籠いっぱいの車海老は、ひとつの家庭で消費するには多すぎる量だったらしい。だから共同で買って、必要な分だけわけあいっこしましょう。そんな塔子の名案に乗った多軌は、その後も二人で買い物を続けながら、海老を使った献立の話であれこれ盛り上がり、そのまま一緒に夕飯を作る運びになったのだという。
 ダイニングテーブルを挟んだ向こうで塔子と隣同士で座って、ここにいる経緯を楽しげに語る多軌の話を、夏目は麦茶を啜りながら興味深く聞いていた。
「透ちゃん、普段はお家にあまりご家族のかたが帰ってこなくて、ほとんど独りだっていうじゃない。たまの今日くらい、一緒にたくさんお料理して、ついでにうちでお夕飯を食べていってもらおうと思って。いいわよね?貴志くん」
「はい、もちろん」
 知らないうちに、いつのまにか名前呼びになっているほど親しげになった塔子と多軌に内心面食らいつつも、夏目はにこやかに答えた。
「だから、タキが割烹着を?」
 納得した夏目は、多軌をあらためて眺めてみた。見慣れたキッチンに割烹着の多軌がいる光景は、目新しいのにどこかしっくりとくる。意匠の違うお揃いを着けた塔子と並ぶと、まるで親子のようだ。
「普通のエプロンもあるのに、透ちゃんがこっちを着てみたいと言うんだもの」
「…実はずっと憧れだったんです。塔子さんの割烹着姿、可愛いから」
「まあ。うれしいわ!」
 朗らかに盛り上がる明るい会話に、夏目の頬も緩んでしまう。
 普段、学校で聞こえてくる女子たちの会話には少し気おくれをしてしまうくらいの勢いを感じていたけれど、多軌と塔子のそれは不思議と耳障りがよくて、とても好ましい。にこにこと二人を眺めていると、「それじゃあ、貴志くんも帰ってきたことだし」と急に矛先を向けられて、夏目はどきりとした。
「な、なんですか?」
「みんなでごちそうを作りましょうか」

 目前にでんと鎮座する大きなタライの中を覗いてみれば、たっぷりの氷水に浸された大量の海老がこんもりと積まれている。これらぜんぶの殻をむいて背綿を取るという、大仕事が始まった。
 自分用のエプロンを装着した夏目が、多軌と並んでシンクの前に立つ。狭いキッチンでは少し動くと肩が触れてしまうけれど、多軌は気にしたふうもなく夏目のほうをちらりと見て、がんばろうね、と微笑んだ。
 夏目はこくりと頷いて、謎の緊張を誤魔化すように努めて真剣な顔をつくると、目の前の海老に手を伸ばす。
 まずは慎重に一尾を手に取り、前に塔子に教わった秘密道具のフォークを駆使して海老の殻と格闘し始める。既に下処理の手順を理解しているらしい夏目に、多軌は目を見張った。
「夏目くんって、お家でちゃんとお料理もやっているのね」
 感心したように呟く多軌に、夏目は得意げな顔で答える。
「ほんのたまにだけどね。塔子さんのエビフライはおれも先生も大好物だから、多めにつくるときはお手伝いしたりするんだ」
「そうなんだ!先生も……ふふ、じゃあ今日はよりいっそう、気合をいれなくちゃ」
 最愛のニャンコを思い出して嬉しそうな多軌をみて、そういえば今日はまだニャンコ先生の姿を見てないな、と夏目は今更ながら気付いた。どうせまた八ッ原あたりで犬の会の連中らと酒盛りでもして、酔っぱらって寝こけているんだろう。
 タイミングが悪いな、と夏目は思う。
 先生が早く帰ってこれば、多軌がもっと喜ぶだろうに。
 もし夜遅くに帰ってくるなら、先生のぶんは残さないでおいてやろう、などと思いながら次の海老を手に取る。氷がついた新鮮な海老は冷たく、長引けば手が痛くなりそうだった。
 ちらりと多軌の手を見ると、忙しなく動く細い指先が少し赤くなっている。その手つきは慣れたもので、夏目のように道具も使わず、ぺりぺりと上手に殻を外していた。
「タキもすごく慣れてるじゃないか。さすが」
「お盆やお正月とか…家族が集まるときは人手としてビシバシ鍛えられているからかも。ひとりのときはぜんぜん。簡単な料理しかしてないのよ」
「ヤキソバとか?」
「ふふ。そうそう」
 くすくすと他愛ない会話に笑いあう。
 手を動かすことに気をとられるせいか、いつもよりうんとゆるやかに語らえている気がする。夏目の境遇に気を遣って普段は避けられがちな、家族内での多軌の様子なんかも詳しく聞かせてもらうことができて、夏目は嬉しくなる。浮かれた気分で次の海老を取ろうと手を伸ばすと、ちょうどタイミングがかち合い、夏目と多軌の掌が重なった。

「あ…っ」

 冷たい氷水の中で触れた指が熱くじんと痺れて、多軌が息を呑んだ音がした。夏目は慌てて手を引っ込める。
「ご、ごめん」
「ううん。べ、別に、なんともないわ」
 掴みそこねてシンクに落ちた海老を拾いながら、多軌は何事もなかったかのように殻を剥こうとして、力加減を間違えて身までもぎってしまう。
「……こ、こっちは、掻き揚げ用ね」
「そ、そうだな」
 恥ずかしそうに笑う多軌に、夏目も赤い顔で頷いた。

 ふと、視線を感じた夏目が後ろを振り返ると、なぜかにっこりと微笑みを湛えた塔子と目が合った。
「……なんですか、塔子さん」
「あら。私のことは気にせず、ゆっくり続けてね」
「もうすぐ終わりますよ。塔子さんのほうは…」
 よくみれば、塔子の前にもあったはずの海老の山はすっかり完璧に処理が終わっている。手が空いた塔子はいつの間にか湯を沸かしていて、ちょっとした副菜までも拵えていた。
「貴志くん、剥きおわった海老は、どんどんこっちのざるに入れてね。透ちゃんは、とくに大きいものだけは選り分けておいて」
 こちらにてきぱきと指示をしつつ、手を止めずに作業を続けるプロの仕事を目の当たりにして、二人がかりでいまだに終わらぬ未処理の海老たちを前に、夏目と多軌はしみじみと実感した。
「塔子さんって、やっぱりすごいわ」
「……うん、そうなんだ」


「じゃあ、やってみて、透ちゃん。くれぐれも気を付けて、ね」
「はい!」
 塔子秘伝の揚げ方のコツを教わった多軌が、神妙な顔つきで菜箸とお玉を持っている。あまりに真剣な様子に、思わず夏目も固唾を呑んで見守ってしまう。
 多軌がゆっくりと油にタネを落とすと、しゃわっと良い音がして、こうばしい衣のいい香りが漂ってきた。心配せずとも順調そうだ。止めていた手を動かして、テーブルの上に人数分の茶碗やお皿を並べるのを再開しながら、夏目はちらりと時計の針をみる。
「先生と滋さんは、そろそろかな?」
 ちょうどそのとき、玄関の扉が開くわずかな音がして、トコトコと軽快な足音と共に、にゃーん!と思い切りかわいこぶった猫の声が聞こえてきた。大好物の匂いを嗅ぎつけて、ようやく帰ってきたらしい。食い意地だけは立派なあの大妖は、いつも夕飯時にはちゃんと間に合うのだ。
「にゃんにゃ~……ニャ!?」
 つまみ食いをしようとまっすぐ台所にやってきたニャンコ先生は、そこに天敵ともいえる少女の姿をみつけてピタリと足を止めた。踵を返そうと一瞬だけ逡巡するが、多軌の手に調理器具が握られているのをみるや、そろりと近づいてくる。
「あら、ニャン吉くん、おかえりなさい」
「え!ニャンコ先生!?おかえりなさいっ!……ううっ不覚、今は手が離せないわ」
 揚げ物の面倒をみているおかげで、足元でぽよぽよ動く魅惑の白饅頭を抱きしめられずに歯噛みする多軌。見かねた夏目は隣に立って、多軌の震える肩をそっと叩く。
「タキ、そこ変わろうか?」
 垂涎ものの提案に、多軌はうるんだ瞳で夏目をみつめた。けれど、夏目が手を差し出すと「ううん」と首を振った。
「ちゃんとやりとげたいから。平気よ」
 ありがとうなつめくん、と嬉しそうに囁いて、またくるりと油に向き合う多軌に、夏目は感心した。えらいぞ、タキ。
 ふたりの一連のやりとりを、ニャンコ先生は生ぬるい目でながめていた。が、多軌の横顔を見つめたまま一向にこちらを顧みない夏目にしびれを切らして、スリッパの上からつま先をギュッと踏みつけてみる。
「なんだよ先生。夕飯ならもうちょっと待っててくれ」
 つまみ食いなら我慢しろ…と言いかけて、「どうしてこの小娘がうちに?」と事の詳細を求める目をしていることに気付いた夏目が、口を開こうとしたとき。この家の主が帰ってきた。
「ただいま。おや、お客様かい?」
「おかえりなさい、滋さん。うふふ。そうなの。今日、お買い物に行ったとき偶然ね、」
 ご機嫌な塔子の口からすべてが語られていくのを聞いて、ニャンコ先生はふんと鼻息を鳴らした。

 役者が揃って、豪華な夕餉は和やかに囲まれた。テーブルには海老づくしの御馳走が並んで、どれも素晴らしい味だ。多軌が揚げた海老の天ぷらは塔子のものとほとんど遜色がなく、ニャンコ先生も舌鼓を打っている。
「貴志くんと透ちゃんが、仲良く頑張ってくれたおかげね」
 塔子の手放しのほめ言葉が面映ゆく、夏目と多軌はお互いの顔をみては、こまり笑いを交わした。

「はー、食った食った!」
 お行儀悪く畳の上にごろりと仰向けに寝転んで、ニャンコ先生は満足げに舌なめずりをする。
「すごい。先生のおなか、ぽんぽこりんだわ」
「いまは抱きしめるなよ、タキ。中身が出るかも。ナデナデするだけにしておいてやってくれ」
「いや。ナデナデもするんじゃない、こら、タキ、やめ」
 遠慮のない多軌の手に揺らされて文句をいいつつ、起き上がるのも億劫なのか、ニャンコ先生の抵抗は薄い。ようやく触れ合えた念願のつるふか感触を、多軌はうっとりと楽しんだ。
 たのしい食事を終えたあと、気を利かせた塔子が少し食休みが必要だろうと言い出したおかげで、多軌はいま夏目の自室でゆっくりとお茶を飲んでいる。割烹着を脱いだ多軌は清楚な紺色のワンピース姿で、客用の座布団に座って寛いでいた。至近距離で先生を堪能するために身体を倒しているせいで、多軌の白いうなじが、やけに目に入る。思えば、夕闇せまる宵の口のこんな時間に、多軌が自分の部屋にいることが不思議だ。…この部屋の蛍光灯って、こんなに眩しかったっけ。
 じっと見られていることに気付いた多軌は、ふと夏目を振り返ると、かるく首を傾げる。
「夏目くん、もしかして、まだおなか空いてる?」
「え。な、なぜ?」
「なんだか物欲しそうな顔をしているから」
「……。そうなのかな」
 そういわれると確かに、腹は膨れているはずなのに、何かが足りていないような気持ちになってくる。それが何かはさっぱりわからないが。助けを求めるように多軌の顔をみると、こちらを静かに見ていた。まっすぐで透明な眼差しが綺麗だ。

「食べても、いいよ」
「え」

 いいのか?

 狼狽える夏目をきょとんとした顔で見つめて、多軌は机の上を指さした。
「それ」
 食後のデザートにどうぞ、と塔子に持たされたお盆の上には、大粒のマスカットがひと房。
 夏目はしばらく強く目を瞑ると、ぶんぶんと頭を振る。
「ど、どうしたの、夏目くん」
「いや、なんでもないんだ」
 ちょっぴり驚いたけれど、突然の夏目の奇行といえば妖絡みでよくあることなので、賢明な多軌はそれ以上追及しなかった。ニャンコ先生は呆れたとでもいわんばかりに息を吐いているが、夏目は無視した。
「じゃあ、いただきます」
 青い実をぷちりともいで口に放り込むと、甘酸っぱくて美味い。喉まで出かかっていたよからぬ考えごとシャクシャクと噛んで、ごくりと飲み込む。足りないものがなんだったのかは、もう気にしないことにした。
「タキも食べるか?」
「うん、一粒もらうね」
「む。私にもよこせタキ、口に入れろ」
 横になったままで横柄に命令する猫に、「はい、どうぞ」と嬉しそうに尽くす彼女があまりに楽しそうで、夏目もつられて微笑んだ。

 楽しい時間はあっという間に過ぎるもの。
 帰る前にご挨拶を、と塔子と話し込む多軌を横目に、夏目は玄関で靴を履いていた。こんな時間に女の子をひとりで帰らせるわけにはいかないから、夏目が多軌を家まで送っていく手筈になっている。
「貴志、くれぐれも、夜道は足元に気を付けなさい」
 玄関先まで見送りにきた滋が、心配そうに言った。
「いちおう、先生もいるので大丈夫ですよ」
「そうか。ニャンゴロー、頼んだぞ」
 滋にぽん、と頭を撫でられて、にゃん!と素直に返事をするニャンコ先生を抱えた夏目は、多軌がくるのを待つ。そわそわとした夏目をみて、滋がふ、と微笑んだ。
「なんですか?」
「いや。今日はなんだか、塔子さんと出会ったばかりの頃を、少し思い出してな」
 遠く懐かしいものをみているような声色に、夏目はいつかの日、妖・まがときに見せられた、年若い滋と塔子の光景を思い出した。あれはおそらく、この家で暮らすようになる前の二人が、初めて挨拶にきた瞬間。
 もしや自分と多軌の今日も、この家に刻まれたのだろうか。
 もしそうなら――。

 しばらくして、多軌がやってきた。綺麗な紙袋を大切そうに抱えている。塔子からの手土産だろう。
「おまたせ、夏目くん」
「もう、話はいいのか?かなり盛り上がってたみたいだけど」
「ええ。いくら名残惜しくても、このまま泊まらせて頂くわけにはいかないもの」
 冗談めかした言葉に、タキさえ良ければ泊まっていけばいいのに、と言いそうになって、夏目は言葉を飲み込んだ。自分が田沼らの家に泊まるのとは違うのだ。タキが家にいたら楽しいけれど、タキが家にいては、何かがまずいような気がする。
「それは、そうだな」
 じゃあ行こうか、と夏目が歩き出すと、腕の中のニャンコ先生がぴょんと前に出て、二人を先導し始めた。用心棒の面目躍如だ。
 月明りで明るくなった道のりを、ことさらにゆっくりと歩く。
 それでもいつかは必ず辿り着いてしまうのが、ひどく残念だった。

 立派な門構えの前で、多軌はくるりと振り返った。
「ここまでで大丈夫よ、夏目くん」
「あ、うん。……えーと、じゃあ」
 昼間に遊んだ友人たちと別れるときは快く出てきた「またな」が、喉に詰まって出てこない。
 なにか他に適当な言葉を探す夏目を、多軌はじっと待ち続けてくれる。微笑みを讃えたかんばせが月明りに照らされて、夏目は唐突に理解した。

 ああ、そうか。

 自らが望んでまっすぐに帰り着いた場所に、多軌が待っていてくれて、夏目はとても嬉しかったのだ。
 それが今日だけの特別な出来事だということが、どうにも惜しくて。

「タキの割烹着姿、すごくかわいかった」
「え?」
 ぽろりとこぼれた心からの言葉が、すとんと腑に落ちる。
「またきてくれたら嬉しい」
 口が滑った。と思ったときにはもう遅い。恐る恐る多軌の様子を窺うと、驚いた顔で絶句していた。みるみる赤く色づいていく頬は果実のようだ。甘そうだな、と夏目は思った。
 そのあとしばらく無言のままで立ち尽くす多軌を前に、夏目は急激に不安になってきた。かける言葉もみつからずに慌てていると、多軌がようやく口を開く。

「……よかった」
 安心した、と宣う多軌は、よくみれば首元まで真っ赤だったけれど。
「実はね。さっき塔子さんの割烹着を、一枚頂いてしまったの」

 多軌も一応しっかりと遠慮したらしいが、またこれを着て一緒に料理しましょうね、と塔子にやさしく微笑まれては断ることはできないだろう。さすが塔子さん、やり手だな。夏目は心の中で、したたかな養母を讃えた。
「だからこれからまた、夏目くんがいないとき、こっそりお家にお邪魔しているかも」
「こっそりはやめてくれ。心の準備をさせてほしい」
 わりと本気で。夏目は懇願した。割烹着姿の多軌が家で待っているかもしれないなんて、嬉しくて心臓に悪い。困りきった夏目を愉快そうに見つめて、多軌は笑った。先ほどまでの変な空気は霧散している。胸の奥に擽ったいような蟠りが残っているけど、きっとそれも明日には気にならなくなるだろう。

 ただ、今だけはまだ。


/終

(2026/9/18 Upload)